忍者ブログ
< 07月 | 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 09月 >
Home > カテゴリー > 今日は何の日

[PR]

2025年08月21日

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

▲page top

乃木大将の日 

2010年09月13日

9月13日(月曜日) 旧暦8月6日
今日もいい一日だ。何と言っても清々しい。

今日は乃木大将の日。「坂の上の雲」を読んでると、疑問も持つが、間違いなく立派な侍だったろう。
戦争も自決もあってはならないが、忠孝の精神は今の日本人も忘れてはならない!と思うのでした。

1912(大正元)年のこの日に乃木希典陸軍大将とその妻・静子が殉死した。

武人としての評価は分かれるところであり、西南戦争のとき軍旗を失い自決しようとしたが、諫められ、日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には 半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって国民の前に謝 罪したいといわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典の人間性を素直に現わしています。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。
学習院院長在任中の明治45年(1912年)夏のこと、生徒を引率して鎌倉に水泳訓練に行っているとき、天皇の容態の急変を知らされ、急いで東京へ帰り病床を見舞ったが7月30日、天皇は崩御になった。
乃木希典の死の許されるときがきたと思われたことでしょう。
9月13日静子夫人を伴って葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、二階八帖の間に於いて自決されました。
武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた乃木希典のこの自刃は文人としての心情に裏打ちされた武士道・明治の終焉でありました。
PR
▲page top

伊達政宗の誕生日(旧暦) 

2010年09月10日

9月10日(金曜日) 旧暦8月3日
今日もいい一日だ。
伊達政宗の旧暦の誕生日であり、木村政彦の誕生日だ。(ちなみに1873年以前は旧暦)

【伊達政宗遺訓】
一:仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。
智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一:気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。
倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
一:朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
一:今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

この世に客に来たと思う境地も深いな~!
▲page top

重陽の節句

2010年09月09日

9月9日(木曜日) 旧暦8月2日
今日もいい一日だ。何といっても朝から涼しい。しかも【たいへんめでたい重陽の節句】です。
そしてカーネル・サンダースの誕生日。年をとっても、熱意があれば何でも出来るぞ!

重陽の節句
奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なることから「重陽」と呼ばれる。
陽の極が2つ重なることからたいへんめでたい日とされ、邪気を払い長寿を願って、菊の花をかざったり酒を酌み交わして祝ったりしていた。

カーネル・サンダース
30代後半、「自分の将来は自分で決めよう」と独立します。注文の前に、埃だらけの車の窓をサービスで洗 いラジエーターの水を調べる。「他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である」という信念の実践でした。大恐慌と干ばつにより、農民に貸 していたガソリン代が回収できずにスタンドはつぶれ、正に挫折の連続で半生が過ぎます。しかし、幾度失敗しても立ち上がるサンダース。晩年に私たちに遺し た言葉は、その経験から生まれました。

ほんとうに美味しいものは歳をとらない

ガソリンスタンドを利用する人たちのために物置を改造して6席だけの小さなレストラン「サンダース・カフェ」をコービンに造ったのは1930年6月。片腕 の自慢の息子を亡くすという不幸を乗り越えながら、スタンドはサービスの良さで、カフェは味で評判となります。その目玉 が独特なフライドチキン。素材にまでこだわった手づくりの味と細やかなサービスに、来客は列をなし、人々への貢献により1935年にケンタッキー州知事か ら名誉称号「カーネル」を授与されます。その後、火事や新ハイウエーによる人の流れの変化など、苦難は次々と続きますが「猛然と働く意欲」と「サザン・ホ スピタリティ」を忘れることはありませんでした。そして客席を回ってお客様にご満足しているかうかがいながら「私の料理がもし美味しくなかったら、お代は いりません」と明言し、自分の料理への自信と愛情を隠しませんでした。試行錯誤の末にフライドチキンのオリジナル・レシピを完成させたのが1939年。以 降70年余、この味は変わることなく今に受け継がれているのです。

日本が一番好き

新しいハイウエーの建設により車の流れが変って維持できなくなった店を手放し、負債を支払ったカーネルの手元にはいくらも残りませんでした。フライドチキ ンの調理法だけが唯一の財産。この時、65才。しかし、不屈のカーネルは、それを教える代わりに売れたチキン1羽につき5セントを受けるというFCビジネ スを始めます。車で各地を回る強行軍ながらビジネスは成功。73才の時にはチェーンは600店を超えていました。ここで権利を譲渡し、その後は、自分の調 理法が正しく行われ美味しいフライドチキンがきちんと提供されているか、各地の店舗をみて回ります。その旅は世界各地に及び、年間数十万キロにまでなりま した。

▲page top

▲page top